白旗神社 (藤沢市)
源義経と白旗神社
御祭神
・寒川比古命(さむかわひこのみこと)
・源義経(みなもとのよしつね)
相殿神
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
国狭槌尊(くにさつちのみこと)
御祭神「寒川比古命(さむかわひこのみこと)」の
分霊を祀り寒川神社と呼ばれていました。
源義経の死と伝承
義経は文治5年(1189)4月30日、
奥州(岩手)平泉の衣川館の地で自害します。
その首は弁慶の首と共に鎌倉まで送られ、梶原景時、和田義盛により
首実検がおこなわれました。
首実検がおこなわれたその夜、二つの首はこの神社に飛んできたといいます、里の人々がこれを見ると、鎌倉殿(頼朝)に伝えすぐに白旗明神とし御祭神に源義経、弁慶の首を八王子社として祀ったそうです。
源義経公鎮霊碑
義経公の兜をかたどった鎮霊碑 平成11年6月建立。
御社殿
文政11年(1828)より7年の歳月をかけて造営された御社殿。
流権現造り、外壁を飾る装飾は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財です。
社紋は「笹竜胆」義経(源氏)の紋。
弁慶の力石
神石とも呼ばれる、触れると健康になり病気にかからないと伝わる石。
また、亀の甲羅に似た巨石は、茶屋で一服した農家や町内の若者たちが
持ち上げて力比べをしたそうです。
狛犬
庚申塔
20数基の庚申塔群、中には江戸時代初期寛文5年建立のものもあり
源義経公 (幼名牛若丸)
河内源氏(河内国現在の大阪府に根拠地を置いた清和源氏の一流)
平治元年(1159)源義朝の九男として生まれます。幼名は牛若丸(うしわかまる)
平治の乱で父を失い、母常盤御前、牛若丸、今若、乙若とともに平家に捕らえられるも幼子だったため助けられ鞍馬寺に入れられました。
その後、父の敵が平家であることを知ると、平家打倒の為に、学問、武芸にいそしみました。のち奥州藤原秀衡のもとで青年期を過ごし、治承4年(1184)異母兄弟の頼朝の挙兵に加わり,奥州平泉より東国武士を率いて京都へ上り、平家軍を一の谷で破り平家一門を追討します。
しかし平家追討の間に梶原景時や関東御家人と対立し、後白河上皇から頼朝の許可なく官位を受けたために頼朝と不破になってしまいます。
文治5年(1189)に藤原秀衡の子藤原泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、4月30日、衣川館を急襲、館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てたといいます、享年31歳。
白旗神社ゆかりの史跡
腰越での首実検の後、白旗川の川辺に流れ着いた御首は金色の亀の甲羅に乗って現れ、里の人は御首を拾い上げこの井戸で泥を洗い流したと伝えられています。
http://〒251-0052 神奈川県藤沢市藤沢2丁目1−10
万福寺
義経は死んで御首だけになっても鎌倉へ入ることを拒まれました。
和田義盛、梶原景時によっておこなわれた首実検の後、「腰越状」で知られる万福寺の側にある腰越浜に御首は捨てられました。そして片瀬浜の波間を漂い、上げ潮に乗って境川を遡り、支流の白旗川辺に漂着したと伝えられています。
http://〒251-0052 神奈川県藤沢市藤沢2丁目1−10
弁慶首塚と八王子社跡
常光寺本堂の裏、墓地隣にある小さな広場に数基の庚申塔があり、その中に「弁慶塚」と刻まれた石碑があります。昔、この辺りに武蔵坊弁慶の御霊を祀った八王子社が建てられたそうです。
http://〒251-0052 神奈川県藤沢市藤沢2丁目1−10
白旗神社の年間祭事
1月1日「元旦祭」
1月7日~31日「藤沢七福神巡り」
5月初旬「義経藤と弁慶藤」
6月13日「源義経公鎮霊祭」
7月15日~21日「例大祭白旗まつり」
10月28日「秋祭湯立神楽」
11月酉の日「大酉祭とりの市」
所在地
神奈川県藤沢市藤沢二丁目4番7号