こまえ探究記~郷土史と古代信仰と~

こまえ歴史探訪

日本の文化と歴史をたどって

新田稲荷神社

神奈川県相模原市中央区淵野辺

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 新田稲荷神社

 

新田稲荷神社(しんでんいなり)は

JR横浜線に沿った共和1丁目に

鎮座する神社です。

 

文政元年(1818)に開発がはじまっ

淵野辺新田の鎮守として皇武神社から

稲荷神社を勧請したのが

はじまりとされます。

 

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今熊神社

御祭神

 

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呼ばわり山のいまごまさま

 

境内にある呼ばわり山は

高さ7~8メートルほどの小丘で

山頂には祠が祀られおり

いまごま様と呼ばれていました。

 

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開発される以前、この辺りは

一面の原野で周辺の村々では

ここから草や茅を刈り飼・肥料などに

利用していたそうです。

 

しかしこの草深い原野に入り込んで

行方不明になってしまうことがしばし

あったということです。

 

そこで人探しにご利益がある

武蔵国多摩郡川口村の(現八王子市内)

今熊野大権現社を(現、今熊神社)

勧請し祠を建て祀ったと伝わります。

 

また鐘や太鼓で行方不明者を捜索し

「迷子の迷子の誰それやーい」

と呼ばわると生きている限り

必ず現れると信じられていました。

 

 

近年では小惑星探査機

はやぶさ」が消息を絶った際に

この呼ばわり山で発見祈願をし

無事はやぶさが帰還したことで

新聞や書籍で話題になりました。

 

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www.townnews.co.jp

 

 

 細戈神社

 

 

御祭神

 

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境内には細戈神社が(くわしほこ神社)

合祀されています。

 

軍都時代から戦後の変遷

神社のあらましによると

天地創造の神

伊弉諾命が我国を万事不足のない国として

細戈千足の国と命名したのに始まる。

と記されています。

 

 

細戈(くわしほこ)とは

「精巧なる武器」という意味で

細戈千足国とは「精巧な武器が十分にある国」

という意味だといいます。

 

 

 

こちらの神社は昭和15年までは

日本陸軍兵器学校にありました。

 

(現、麻布大学 大野北中学)

 

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昭和20年

終戦時に新田稲荷神社へと遷座

昭和50年では同校同窓会「工華会」と

新田稲荷神社の氏子達により社殿を修復し

平和産業振興の神社として崇められ今日に

伝わっています。

 

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勇ましい細戈神社の狛犬

 

淵野辺新田の歴史

 

開発難航した淵野辺新田

 

淵野辺村一帯が

この開発を始めたのは

文政元年(1818)ですが

最初に出願したのは

それよりも15年前でした。

 

当時の幕府は関東郡代という

政変があったためか

農民の許可申請がうやむやに

なってしまったといわれています。

 

 

文化14年(1817)ハゼの植付け

奨励に訪れていた幕府の役人

最上徳内に(もがみとくない)対し

村人たちはかねてより新田開発を

出願していることを話しました。

そして徳内の斡旋により翌年の15年

 開発がはじまります。

 

その後、開発は進められましたが

天候不順や境川の増水などにより

予定通りにはいかなかったそうです。

 

 

進められた開発は二度の検地により

「みつけものの畑」との意味をもつ

生産性のごく悪い見付畑や

雑木を植えて薪炭の用とした

畑林などで村人たちの新田開発は

苦労の連続でした。

 

 

最上徳内とは?

出羽国(山形県)農家出身ですが

江戸へ出て数学や天文などを学び

蝦夷には9回も探検に行き

幕府の北方政策に大きく貢献し

幕府の役人になりました。

 

ja.wikipedia.org

 

 

新田稲荷神社の御由緒より

 

文政元年1818年の新田開発から

八王子道沿いに16戸の入植者があり

16軒新田と呼ばれていたと記されています。 

 

昭和22年4月には不慮の火災があったといいます

昭和27年本殿と覆殿

昭和55年には崇敬者の奉賛もあり拝殿が再建されました。

昭和62年には矢部新田の村富神社から神楽殿が移設され

春は花見、夏祭りには余興に演劇がおこなわれ

初詣には参拝者で賑わっていると由緒に記されていました。

 

 

 

 

 

 

 

村をつないだ道

 

八王子道と淵野辺新田

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境川に沿う八王子道は

上鶴間、淵野辺、橋本などの各村々を

通って八王子宿に向かう道筋です

 

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文政元年1818年の道沿いに

稲荷神社が勧請され当時は

「すぎっぱ稲荷」

と呼ばれていたそうです。

 

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この淵野辺新田を通り抜け

さらに西方向に進むと

道は八王子方面と久保沢方面に

分かれ、その分岐点にあるのが

上矢部新田の鎮守村富神社といわれています。

 

 

道の途中にある神社はしばし

道行く人の休息場として

道祖神は人々を見守り

歴史を私たちに伝えてくれます。

 

komaefudo.hatenablog.com

 

まつり

 

 

 

 

新田稲荷神社の四季

 

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(2020年1月のどんど焼き)

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(2019年境内の紅葉)

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今後追加予定

 

 

参考資料

  • さがみはらの地名
  • 地域歴史素材集
  • 相模原市史 民族編
  • ふるさと歴史散策
  • 御由緒のあらまし 氏子総代会編集より

 

撮影日 2019年12月14日〜

 

 

 

 

所在地

 宮司 亀が池八幡宮

管理運営 七自治会運営

 

〒252-0234 神奈川県相模原市

中央区共和1丁目11−18

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