村富神社
神奈川県相模原市 村富神社
神奈川県相模原市中央区矢部に鎮座する
村富神社(むらとみ神社
江戸の商人相模屋助右衛門が当地周辺の上矢部新田村を開発するにあたり村の鎮守として寛文年間(1661-1672年)稲荷社として創建、明治6年に村社に列格したといいます。
相模屋助右衛門と上矢部新田開発
商人が私財を投じ開発
村富神社の位置は上矢部新田の中央にあたり、昔は甲州と江戸を結ぶ裏街道として利用され津久井の久保沢宿、下九沢、村富神社、長津田、江戸青山と続いていたそうです。
八王子道と久保沢道の分岐点に小さな祠を祀り旅人はしばし休息地としていました。
甲州と江戸を往来するさいに甲州街道を利用せず、裏道であるこの道筋を利用していた甲斐国出身の江戸の豪商、相模屋助右衛門(さがみやすけえもん)はこのあたりに半農半商の宿泊所があれば旅人も助かり都合が良いだろうと考え、延宝元年(1673)に、藤澤宿代官の成瀬五左衛門の許可を得ると上矢部新田開発を始めました。
この上矢部新田は市域で最初の新田開発だといわれています。
助右衛門は私財を投じ、原野を開拓し道沿いに油屋、鍛冶屋、木銭宿、質屋、雑貨屋などを設けました。
当時、新田内に家を構えた農民は近隣農家の次男、三男で11~16人であったといわれます。
助右衛門は開拓がひと段落すると、この土地を安く農民に与え、助右衛門は江戸へ立ち去ったと伝えられています。
貞享元年(1684 )の検知によると、上矢部新田の開発面積は193町ですが大部分は芝、松、葦の生い茂る原野で畑はごくわずかでした。
開墾された土地には、火山灰のやせ地でしかも生活に大切な水の便も悪く、村人は二キロ先の境川まで水を汲みに行っていました。
上矢部新田と境川を結ぶ「上矢部街道」もそのため「水汲み街道」と呼ばれていたそうです。
大松と白蛇伝説
御神体だった大松様
かつて「鎌倉街道 見透しの松」と呼ばれる大きな松がありました。
大正末まであったその大きな松は、当社が建つ前から大松様と呼ばれ根元に建つ小さなやしろで旅人達が休息し長く人々を見守り、親しまれてきました。
大松に絡みつく白き大蛇
相模原民話伝説集には、松にまつわる白蛇伝説が残っています。
「中央から相武台へ通じる県道は通称村富線と呼ばれ、由来は起点にある村富神社です。
この社は上矢部新田の鎮守とし祀られ社の前には、大きな松があり息をしないで7周すると白い大蛇が現れるとされました。
松の木は津久井からも見え相武台へ道がつながったとき誰言うことなく村富線と呼ぶようになりました。」
根元は空洞で幹りは3メートルを超え、その幹の周りを息を止め左から7周すると白い蛇の姿が見えたという伝説です。
雨が降った後は白蛇が幹の周りをぐるぐる巻いているのが見えたと伝えています。
かつては幹の空洞の中に生卵を供える信仰があったそうです。
惜しくも神木は枯れてしまいましたが名碑として伝説を伝え残しています。
狂い獅子 市指定有形民俗文化財
幻の舞と三体の獅子頭
村富神社には 剣獅子 玉獅子 巻獅子の獅子頭3体が保存されています。
獅子頭に文化3年(1806)の墨書がありその頃のものだといわれています。
明治39年の文書に「この舞里人自ら歌舞したるに絶えて久しく」という記録がありこのころにはすでに狂い獅子は絶えていたようです
「狂い獅子」
獅子舞は「狂い獅子」とよばれ親とはぐれた子の獅子とその親獅子が、狂ったように練り歩き、やがて再会し幕になる舞だと伝えられています。
地域の伝承によれば、獅子舞が中止になったのは明治20年頃だといわれています。
現在この獅子は、祖神社の中に収められています。
郷土の生活文化を知る上でも貴重な獅子頭は
平成13年に市指定有形民俗文化財になりました。
山の神と力くらべ石
疱瘡の神
鳥居に向い矢を射て疫病退散を祈りました。
かつて若者が力比べをした石だいわれています
村富神社の石仏や石碑
(境内の石造物は追加予定)
まつり
- 例大祭 8月第1週の日曜日に開催
- 元旦祭 1月1日
- 初午祭 2月上牛の日
- 七五三祝 11月15日
- 除夜祭 12月31日
村富神社の四季
秋の参道(2019.12/10)
(今後も追加予定)
参考書籍
撮影日 2019~2020年 1月14日
所在地
〒252-0232
神奈川県相模原市中央区矢部2ー7ー15
電話番号 042-751-1138
〒252-0243
神奈川県相模原市中央区上溝1678
電話番号042-751-1138
ホームページ
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上矢部街道の碑
〒252-0201
神奈川県相模原市中央区上矢部4丁目6−12
(上矢部こども会館 薬師堂 )